「恐山怪談」

日本には「山岳信仰」というのがあって

修験者などが山々を歩いて修験するのは

そういう理由からだが

それと接続しているのかどうか

東北地方には山を「あの世の入り口」と信仰する慣わしがある

有名な「なまはげ」は山(つまり冥界)からやってくる使者だし

岩手県の遠野の民話には途絶した山奥には「異界」があるというハナシがいくつかある

青森県の恐山はそんな「異界との境界」の代表格である

以下は

新卒で同期入社したヤツから聞いたハナシだ

_______________________________________

Aは元上司のKが東北支店の支店長に就任したおりに

東北支社に転勤した

東京の下町出身のAは風土がまったく違う東北での営業に不安はあったが

生来の人懐っこさとバイタリティで営業成績を伸ばしていった

当時は業種専用のアプリケーションパッケージを展開しており

Aは自動車整備業の販売で成果をあげていた

ある日

青森にある自動車整備業の会社から

「せひ検討したい」という申し出があり

クルマを走らせて恐山に出向いた

支店は仙台にあり

恐山だと一泊する出張営業になる

突然の営業だったこともあり旅館は予約していない

幸いなことに恐山はそこそこの観光地ということもあり

予約なしでの宿泊でも可能であった

街中の観光協会を通じて温泉旅館も予約でき

営業も上々の首尾で

暮れなずむ恐山の麓にある旅館へクルマを走らせた

結構きれいな旅館で

旅館のひとのハナシだとその日宿泊しているのはAひとりだといった

「貸し切りですよ」と女将は笑った

そこそこの夕食を済ませ

温泉に入るかと浴衣に着替え大浴場に向かう

当たり前だが

「貸し切り」状態だから脱衣場にひと気はなく

脱衣棚のカラだった

浴室の引き戸を開けなかに入ると

湯船のうえにもうもうと湯気が立っていた

なかなかの広さの湯船で

「これをおれひとりが貸し切ってるワケだ」となんだか思わず贅沢な気分になった

湯に浸かって初めて気づいたのだが

浴槽のみだり端

湯気を通して黒いひと影がぼんやりと見える

「なんだよ 貸し切りじゃねえのか」と女将に騙された気がしたが

もしかすると旅館の従業員かもしれないと思い直してゆったりと湯を楽しんだ

充分に汗も出たしカラダの温まったので浴槽から出てカランに向かった

ふと見るとひと影は少し位置が変わっていたがまだ湯気の向こうに見える

「長湯だな」とかんじながら

カランでカラダを洗う

ふと後ろが気になって浴槽を振り返ると

ひと影は消えていた

この大浴場を退出するにはカランの横を通らなければならない

アタマを洗っているときに出て行ったのか?とも思いながら

湯を浴びて

大浴場を出た

廊下で女将とすれ違ったので

「貸し切りじゃなかったんですね」と軽いイヤミのつもりで話しかけると

女将は顔を曇らせて

「あら 出ちゃったんですか?」と小声でつぶやいた

「場所が場所だから 出てもおかしくはないんだけど うちはお風呂にだけときどき出るんですよ」という

そして「客室のほうには滅多に出ないから安心してください」とニヤっと笑った

広告を非表示にする